現代焼酎の父、河内源一郎  
  明治16年4月30日、広島県福山市生まれ。生家が代々醤油屋だったせいで、小さい頃から自然と関心は微生物に向く。大阪高等工業学校の醸造科に進学。卒業後大蔵省の役人になり、税務監査局の技師として鹿児島に赴任したのが鹿児島焼酎との出会いである。

名前は同じでも、当時の焼酎は今とは比べものにならないくらい、まずいしろものでだったようだ。しかも製品にはばらつきがあり、よく「腐る」のである。だから当然製品の歩溜も悪かった。

「なんとか手だてはないですか、先生!」巡視先で幾度となく同じ悩みを業者から聞かされた彼は、ほどなく、明快に、解決への糸口を見つける。それは、鹿児島の焼酎が清酒と同じ種麹(黄麹)を使っているせいではないか 。気温の高いところに、本来寒冷地向きの日本酒の麹がいいはずがない。暑いところの酒のモトは同じ暑いところから探すに限る。鹿児島の南は沖縄・・・。目を付けたのは泡盛だ。

そして明治43年、泡盛の麹菌から胞子を取り焼酎に一番適した菌を栽培することに成功する。

「泡盛黒麹菌」(アスペルギルス・アワモリ・ヴァル・カワチ)の誕生である。この発見によって焼酎の歩留まりを飛躍的に向上させた彼は、その後種麹製造に関する特許を三件も取得、大正13年にはさらに糖化能力のすぐれた新種の開発に成功。これが有名な「河内菌白麹」である。製造が簡単な上、焼酎の品質も格段に優れている。河内菌は糖化酵素のほかにクエン酸も作る。このクエン酸が腐敗菌を抑えるのである。

昭和6年、46歳で退官。源一郎は鹿児島市清水町に工場を構え、自ら開発した各種焼酎用種麹の製造と販売に乗り出す。

山元正明との出会いは、太平洋戦争も終わりに近い昭和20年6月。鹿児島高等農林学校を出て海軍の技術士官(少佐)だった山元は、焼酎から航空機用アルコールを抽出・調達する役目をおびて鹿児島に赴任していた。彼の高農時代の恩師・西田孝太郎が源一郎の親しい友人でもあったことから、源一郎はこの学究肌で行動力に富んだ青年が大いに気に入った。源一郎は、長男の邦夫を鹿児島高農に進学させ、後をつがせるつもりだったが、当の邦夫はその気はなく、日大へ進学。やむなく次女の昌子に期待をかけ、鹿児島高女から東京女子薬専へ進学させていた。彼女は後の山元と結婚する。邦夫は長崎の軍需工場から戦後、まもなく帰郷、しばらく父の仕事を手伝っていたが、昭和30年秋、35歳の若さで病死。3代目は娘婿の山元に引き継がれる。

源一郎はこれより先、昭和23年3月31日、胃の手術で入院するその日、容体が急変、自宅で息を引き取った。66歳。妻の貞代(昭和46年2月、86歳で死去)が着物の乱れを直そうと胸をさぐると、夫が手に握りしめているものがある。麹と蒸し米が入った数本の試験管ではないか。

文字通り、研究の虫だった源一郎。晩年は持病の胃痛で寝込むことが多かった。寝床のかたわら火鉢があり、いつも鍋がぐつぐつ煮えていた。フスマ(麦ぬか)から味の素を作る実験だ。物資不足で 濾紙がわりに新聞を使うありさまだったが、そのトラの子の実験鍋を猫が蹴飛ばしてしまったことがある。かねて怒った顔など見せない彼が、この時ばかりは布団をはねのけ、家中の猫を追っかけ回したそうだ。

「黄麹」から「黒麹」、そして「白麹」へ、近代焼酎の発展をささえ続けてきた「河内源一郎商店」は昭和62年、画期的な新製品を発表して業界を驚かせる。従来の焼酎白麹菌と清酒用麹菌の細胞膜を酵素で取り除き、融合させる。こうして誕生したのが、清酒と焼酎双方の風味を合わせ持つバイオ焼酎「てんからもん」である。

ネーミングの妙も賞賛されて、この「てんからもん」は同年第一回かごしま産業技術賞と日経優秀製品賞などに輝いた。開発の推進役を果たした 正明の長男、正博(昭和25年生)は「てんからもん」の製造元・株式会社錦灘酒造の会長。鹿児島空港前にそびえる同社のシンボル「焼酎公園」も彼のアイデアである。